Shingaku Express / 誉田進学塾だより 巻頭言より
(2022年11月号)
吾、十有五にして…
「飢えて困っている人に、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」という言葉をご存じだろうか。公式ブログの巻頭言バックナンバー記事に関連して、この言葉の出典が少々気になり調べてみると、中国の故事と言われているが、文献として確認できる一番古いものは19世紀のイギリスの小説だ、と見つけた。
それはさておき、この言葉は、海外協力の世界などではよく引用されていたが、教育の世界でも引用されることが少なくない。「勉強」を教えるには、単に知識を教え憶えさせることや、問題の答を教え解答できるようにすることではなく、「勉強」のやり方・方法を教えることの方が重要だという意味となろう。
もちろん、その考え方は大切である。その考え方での教育法を追究することも必要だ。まだ十分に究められているとは言えない。だが、現代の日本の子供たちに求められる教育は、それでは足りないと考える。それだけでは、結局、教えられた方法でしか課題を解決できない大人へと成長させることに繋がるだろう。
自ら解決法を生み出せる人を育てなければならない。そのためには「勉強法を教える」を越え「勉強の目的意義」を明確にすることが必要ではないだろうか。
ただし、使命感で行動が迷わず強く持続できるようになるには、かなりの年月が必要だ。論語では「吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とある。渋沢栄一著「論語と算盤」では「(15歳にして)学に志すは大いに疑問で、これから大いに学問をしなければならないな、くらいに考えていただけではないか」とある。使命とわかるのは50歳だ。
10代の子供たちには「勉強の楽しさ」を教えることの方がさらに重要だ。(私は釣りは知らないが)釣りが楽しければ、釣り方を考える工夫をするようになるに違いない。そして楽しく釣る人は「釣りの楽しさ」を伝えることができるはずだ。
※この内容は2022/11塾だよりに掲載したものです。
知識や答えを直接教える =「勉強を教える」ではなく、「勉強のやり方」を教えることの方が大切であることは言うまでもない。
知識を直接教え込み、目の前の点数を取らせるような「勉強」を押し付け教え込んだとしても、教えている者を超えるところにはたどり着けない。そして、そのような勉強は教えられている側の視点で見ると、やる気を生み出しにくい。
だから「勉強のやり方」を教えることの方が重要だ、となるのだが、そもそも、教えようとしているその勉強法自体がはたして正解なのか、明確なエビデンスがないことが少なくない。
さらに、習ったやり方でしかできない人間に育ててしまったならば、真の創造的な成果を生み出す人にはなり得ないはずだ。
自ら課題を見つけ、解決の方法を考えて生み出し、成果がでるまでやり続けるような人間を育てなければならない。最近の「探求型学習」や「アクティブラーニング」という考え方は、その線上にあるものだろう。
ただ、そのためには、指導者をどう育てるかと、学習のプロセスをどうカリキュラム化して一定の再現性のある品質に作り上げるかという2点の大きな問題がある。「教育法」の「科学的な追求」が必要であると考えるが、それはまた別の機会に譲る。
初期の教育段階では、それらの前に「やりたい」という気持ちを引き出すことがもっとも重要である。どんな困難に出会っても、諦めずにやり続ける人たちには「使命感」という共通の要素がある。ただし、本題で述べたかったことは、使命感が強く形成されていくのは成長のかなり後の段階であるということだ。
それまでは、やりたいという素朴な原動力、「楽しい」を伝えることが一番だと考える。
「学ぶことは素敵なこと」なのだ。